宗教の意義
宗教の意義について、日本の思想と西洋思想の代表としてキリスト教の二つの観点から考える。考えるポイントとして霊性(スピリチュアリティ)を用いることにする。
まず、日本の霊性について考察する。日本の霊性について研究をしている鈴木大拙氏の『日本的霊性』によると、霊性とは、精神と物質という二元論的なものを一つに統合する唯一のものである。霊性に目覚めることによってはじめて本当の意味での宗教を理解できる。つまり、精神と物質が互いに対抗している時に霊性を自覚することによって、それら二つが一つに統合され、本質的な宗教を意識することができるのである。言い換えると、宗教は人間に霊性を自覚させる(べき)ものであると言える。
次に、キリスト教からみた霊性について考える。キリスト教における霊性とは、神との関係を達成し維持するものである。パウロは人間を理解する為に人間を「霊・魂・体」の三つに分けた。このうち、「魂」を精神、「体」を物質とみなすと、その二つを統合する「霊」という意味において、これは日本的霊性に通じるところがある。また、『霊操』の著者であるイグナチオ・デ・ロヨラは、魂を鍛えること(霊操)は体の健康にも結びつく、と述べている。以上のように、キリスト教は人間に霊性を認識させようとしている意図があるように思える。
私は、寺院や修道院は魂を鍛える、つまり精神的生活を送る為の環境を効率的に提供していると思う。しかしながら、自分をその場所に置くだけでは精神的生活を送ることにはならない。結局は自分で、良心や徳とは何かといったテーマについて考察しなければならないのである。そして、そのような行為は霊性を導き出す行為であり、これこそがまさに宗教が存在する根本的理由である。従って、宗教の意義とは人間に霊性を喚起させることにあるのではないであろうか。
Twitterで“愛”や“love”に関する言葉をつぶやくとそのtweetされた場所が点滅するというもの。
日本語を勉強している者です。
岡惚れと片思いはどう違うんですか。
御答えをよろしくお願いします。
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「岡惚れ」の「岡」と言うのは、江戸時代に『幕府が公認していない』ということを指していて、公認している唯一の遊郭新吉原に対して それ以外の遊所のことを「岡場所」と呼んでいました。簡単に言えば幕府の目から隠れて商売してる自営業の娼婦といった感じです。 新吉原で遊ぶには面倒なしきたりがあり、ある程度お金持ちじゃないと遊べず、 新規のお客が吉原で遊ぶにはコネも必要だったのです。 それで、吉原に行けない男性は岡場所の女性を買って遊んでいました。 この岡場所の女性に本気で恋をしちゃうことを岡惚れと言っていました。ですから「片思い」と同じ意味ですが「片思い」よりも背徳感があります。「道ならぬ片思い」といったところでしょうか。
貨幣、人生、および情報の時間価値
貨幣の時間価値とは、割引現在価値の事です。今日銀行に100万円預けたら、一年後の今日には105万円になっています。利子率が5%ですと元本に利子率を乗じたものが派生的に発生します。このように銀行にお金を預けたら時間が経つとお金の価値が増えるのです。銀行に預けないでも、100万円を自分の手許に持ち続けた場合も同様です。市場の利子率、つまり銀行の利子率は5%なのですから、手許に保有している現金にも同じく元本の5%分だけお金の価値が増加しているはずです。従って、2年後には1年後の金額を元本として5%の利子率がかかるし、3年後には2年後の金額を元本として利子率がかかります。このように、時間経過と共に貨幣の価値が増加する考え方を「貨幣の時間価値」と呼びます。
時間が経てば価値が増加する、という考え方なのですから、これは人生にも適用出来ないはずがありません。生まれたての赤ちゃんはほとんど無価値に等しいと言えます。(これは生まれたての赤ちゃんが何の役にも立たないという意味では無く、経験値が未だ無いために無価値と同様ということを意図している。決して純粋素朴な赤ちゃんに価値は無いと言っているのでは無い。)一方で死ぬ間際のお年寄りには価値が多いと考えます。これは人生の諸段階での経験値に基づいた考え方であり、必ずしもお年寄りが若い人よりも経験があると断定できるわけでは無いが、一般論的にはそうであると言えるだろう。そして、歳を重ねるに連れて経験を積めると考えます。つまるところ、経験の浅い赤ちゃんは絶対価値的には低いレベルだろうし、経験豊富なお年寄りは自分に経験を蓄積してきたのだから絶対価値的には高レベルにあるということです。以上のように貨幣の時間価値という概念は人生に当てはめてみると、人生においても時間経過と共に人間の価値は増大するということが分かります。
ここで、人間の価値は時間と共に増えるという事が分かったので、人間の為す事はどうであるか考えてみます。人間の発言や行動も時間が経つと共にその価値、つまり重要さや影響力を増してくるのではないでしょうか。実際の例として、ピカソの作品は当時はあまり良く評価はされませんでした。しかし、時代が変わりピカソが亡くなってからその作品は評価され始めました。ガリレオ=ガリレイの主張も当時は異端だと非難されて迫害されていましたが、時代が変わると徐々に人々に受け入れられていきました。メディアを通して「健康には直ちに影響は無い」といったあの言葉も、時間が経過すると重要性を帯びてくるし、発言された当時よりも評価の重みが違ってくるのです。
この様に考えると、情報の時間価値という概念も理解できます。情報が伝達された当初よりも現在の方が同じ情報でも価値が増してくるのですから、その事を考慮して情報収集しなければいけません。しかし、現在の日本メディアの組織においては、逆に時間が経った情報ほど価値が無いように扱われていますが。
100匹の働きアリがいても、必ずそのうちの2割の20匹は怠け者のアリである。全てを働きアリにする為には、その20匹を排除するのが一つの方法である。しかし、20匹を排除して全体を80匹にしても、全ては働きアリとはならない。80匹のうちの2割の16匹が怠け者のアリになる。どんな組織にも怠け者は存在する。どんなグループにも情熱を持って仕事ができない人間がいる。しかし、そういう人たちも必要。
機会概念
経済学の一概念として「機会費用」という概念があります。これは、あるものを選択したことによって、本来得られたはずの利益を犠牲にしなければいけない、ということを意味します。例えば、レストランで料理を注文する時にハンバーグとビーフシチューを食べたかったとします。でも、どちらか一方だけ食べたらもう満腹で両方とも注文することはできません。そこで迷った挙句ハンバーグを選択したら、本来ビーフシチューから得られたはずの満足感は捨てなければいけません。このように、一方を選択したら他方を犠牲にせざるを得ない費用のことを「機会費用」と言います。これは聞いたことある人もいるのではないでしょうか。
機会概念は経済学の分野だけに存在するものではありません。会計学にも存在します。会計学では「機会原価」というものがあって、これは本来得られたはずである収益を、ある意思決定をすることによって失わなければならない費用を言います。失うのは元々は収益であったものですが、費用と呼びます。
このように機会概念は様々なフィールドで使用されています。どの分野においても根本的な意味に変わりは無く、「ある選択をすることによって失わなければならない別の選択」を意味します。この考え方を人生に当てはめてみたらどうでしょうか?
人生は選択の連続です。レストランでハンバーグを食べるという細かい選択もあれば、将来の自分を決めるような大きな選択もあります。どんな選択でも、自分は常に自分にとって良いと思う方の選択をしているはずです。と言うか、そうするべきです。ハンバーグを注文するということはビーフシチューよりも多い効用を得られると信じて注文します。長期留学するということは、日本の友達と一緒に学校を卒業できないことを覚悟の上で海外に飛びます。誰かと結婚するということは、いろんな人との出会いよりもこの人と一緒にいることが自分にとって最良だからと信じて結婚するのです。
しかしながら、これら人生の選択は、経済学の選択や会計学における選択とは決定的に違う点があります。それは、人生の選択は、それを選択したことによって果たして本当に他方を選択したよりも自分にとって良いかどうか、その選択をする時点では分からないということです。機会費用や機会原価はあくまでも理論上の計算問題なのですから、必ず数値化できます。従って、「この選択をすることによってあの選択をするよりも◯◯だけ便益が多い」と表現することができるのです。しかし、人生における選択は数値化できません。加えて、どちらの選択肢もやってみないと結果は不明です。留学をして海外に多くの素晴らしい人と出会えるのであれば、日本の学校に篭っているよりは良いでしょう。しかし、全く出会いがないというリスクもあります。かえって日本に留まっていた方がより良い生活を送ることが出来たと思うかもしれません。しかし、これらは数値化できませんし事前的な概念なのですから、選択する時にあらゆることを考慮し、予想します。予想が結果的に外れることだってあるのです。こればっかりは実際やってみないと分からない。どちらの選択がもう片方の選択よりも絶対的に優れているという保証は無いのです。ですから、機会概念は人生においては適用できません。その考え方を取り入れることは出来ますが、機会費用の「費用」にあたる部分は、選択後、刻一刻と変化し続けているのです。人生は選択の連続というのは先にも述べましたが、だからこそこの変化し続ける機会費用の「費用」の部分を極力小さくする努力をしなければいけないと思います。自分が選択しなかったことから発生する損失をなるべく小さく、そして自分が選択したことから得られる利益をなるべく大きくすることが、「頑張る」という事なのではないでしょうか。
でも、こんな機会概念を日常生活でいちいち考えている人はいないと思います。だからこそ逆に、考えなければいけないのです。自分が何かを選択しているという自覚さえ無くしてどうして考えられようか。自分が今現在取り組んでいる事は他の何よりも価値があると言い切れますか?犠牲にして捨てた選択の損失を回収しきれるだけの利益を将来生み出しますか?そう考えたら、今の選択・行動に並々ならぬ疑問符が浮かんでくるのです。
自戒をこめて。